胎児の夢
シナリオ情報
- 推奨プレイ時間: 45分〜1時間(長編)
- 難易度: 上級者向け(推理・心理戦)
- テーマ: 精神病院、記憶喪失、狂気
あらすじと登場人物
「ブウウ——————ンンン——————ンンンン………………」あなたが目覚めたのは、壁も床も真っ白な病室。自分の名前すら思い出せない。隣の部屋から聞こえる少女の悲鳴と、不気味な医師。果たしてあなたは何者で、なぜここにいるのか。
主な登場人物(NPC)
- 正木教授: 不気味な笑みを浮かべる精神科医。あなたを被験者として観察している。
- モヨ子: 隣の病室からあなたを「お兄様」と呼ぶ少女。
このシナリオの特徴と見どころ
夢野久作の奇書『ドグラ・マグラ』を題材にしたシナリオ。自分の正気を疑いながら、断片的な記憶と証拠を集めて真実に迫る、濃密なサイコサスペンスです。
プロローグ / リプレイ
ブウウウウウウン……。
いや、違う。チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
遠い昔、それこそ私が母の胎内にいた頃に聞いたような、あるいは今まさに私の脳髄の皺の奥深くで鳴り響いているような、ひどく単調で、それでいて神経を逆撫でする奇妙な打楽器の律動。その音の糸に引かれるようにして、私は泥のような深い微睡みからゆっくりと覚醒した。重い瞼をこじ開けると、そこは全く見知らぬ、陰鬱な病室であった。窓には太い鉄格子が嵌め込まれ、切り取られた空はどす黒く澱んでいる。鼻腔を突くのは、クレゾールと古びた埃、それに微かなホルマリンの臭気。
私は誰だ。ここはどこだ。私はなぜ、こんな所に寝かされているのだ。
記憶の糸をたぐり寄せようとするが、私の脳髄はまるで白紙のように空っぽであった。ただ、漠然とした恐怖と不安だけが、冷たい蛇のように胸の奥をとぐろを巻いている。ふと横を見ると、いつの間にか一人の白衣を着た男が、ヌラリとした笑みを浮かべて立っていた。黒縁の丸眼鏡の奥の瞳は、まるで爬虫類のように冷たい光を放っている。
「やあ、おはよう。気分はどうかな?」
男の言葉はひどく穏やかであったが、私の背筋にはゾクリと悪寒が走った。私は何も答えられず、ただ男を見つめ返した。男はそれ以上何も言わず、静かに病室を出て行った。鉄扉が重い音を立てて閉まり、外からガチャリと施錠される音が響いた。
一人取り残された私は、よろぼうようにベッドから這い出した。壁という壁には、黒々と何か文字のようなものが書き殴られている。目を凝らすと、それは狂気的な数式と、呪詛のような文章の羅列であった。血で書かれたのか、どす黒く変色した文字の群れ。驚くべきことに、その筆跡は、私自身のものと酷似していた。私が書いたのか? この狂人のような戯言を?
「胎児よ、胎児よ、何故躍る。母親の心がわかって、おそろしいのか……」
無意識に壁の文字を声に出して読み上げた瞬間、頭の奥で再びチャカポコという音が鳴った。たまらなくなって鉄扉のノブをひねると、あろうことか、鍵は開いていた。私は這うようにして、病室の外へ出た。
そこは、大正時代の洋風建築を思わせる、古風で不気味な長い廊下であった。九州帝国大学精神病科付属脳髄研究室。なぜか、その名前がふいと脳裏に浮かんだ。両側には私と同じような鉄格子の扉が延々と並んでおり、時折、扉の向こうから獣のようなうめき声や、ヒヒヒという引きつった笑い声が漏れ聞こえてくる。私は息を殺し、壁伝いに廊下を進んだ。
やがて、「若林教授室」と記された磨りガラスの扉に行き当たった。先ほどの白衣の男の名前だろうか。私は吸い寄せられるように中に入った。部屋の中には、気味の悪い人間の脳の標本がいくつも並べられており、巨大なマホガニーの机の上には『脳髄論』と題された分厚い原稿の束が置かれていた。「脳髄は物を考える処に非ず。全身の細胞に刻まれた先祖の記憶、すなわち『心理遺伝』を受信する電話交換局に過ぎない……」。意味不明な理論を走り読みしながら、私は机の引き出しを開けた。そこには、赤茶けた古い新聞記事の切り抜きが入っていた。
『猟奇! 美しき許嫁を惨殺し、実母の首を絞めた狂気の青年』
見出しの文字が、私の眼球を突き刺した。青年……。私は震える手で、部屋の奥にある「標本室」の扉を開けた。むせ返るようなホルマリンの臭気。天井まで届く棚には、膨大な数のガラス瓶が並び、その中には灰色の脳髄がぷかぷかと浮遊している。私はその一番奥の棚に、古めかしい一本の巻物が隠されているのを見つけた。
それを広げた瞬間、私の網膜は凄惨な文字の羅列に焼かれた。そこには、ある一族の血にまつわる、おぞましい因縁が記されていた。唐の時代から続く、呪われた殺人者の血脈。その細胞に刻み込まれた狂気の記憶が、代を経て遺伝し、突如として子孫に発現する。それが『胎児の夢』……。
ふと、足元の机に一冊のカルテが落ちているのに気づいた。表紙には、見覚えのある名前が書かれている。私の、本当の名前だ。カルテを開くと、そこには若林教授の几帳面な文字でこう記されていた。『患者は重度の心理遺伝的狂暴性を発症。先祖の記憶が蘇り、絶えず胎児の夢を見ている。治療法は皆無』。
ズキリ。脳髄の奥で、何かが弾けた。
――ああ、思い出した。
狂った科学者の薄笑い。血の海に沈んだ、美しかった許嫁の顔。そして、この両手が、私のこの忌まわしい両手が、愛する母の細い首を締め上げていく時の、あの生々しい肉の感触。すべては私がやったことなのだ。先祖から受け継いだ細胞の記憶が、私という器を乗っ取り、惨劇を引き起こしたのだ。
私は、物語の傍観者などではなかった。この地獄のような悲劇の中心にいる、紛れもない狂人そのものだったのだ。
「フフフフ……。さあ、思い出しましたかな? あなたが誰で、ここで何をしたのかを……」
背後から、若林教授の滑石をすり合わせるような不気味な声が響いた。振り返る気力すら、私には残されていなかった。視界が急速に歪み、赤と黒の斑点が乱舞する。足元の床が抜け落ち、私は底なしの泥沼へと沈み込んでいくのを感じた。私の自我という薄皮は、何千回、何万回と繰り返されてきた先祖の怨念の前に、あっけなく破れ去った。
私はもう、何者でもない。ただの、狂気を孕んだ肉の塊だ。
私は、この陰惨な研究室の奥深くで、薄暗い羊水に浮かぶ胎児のように身を丸めた。もう二度と、目覚めることはないだろう。これから永遠に、血塗られた先祖の記憶を追体験する「胎児の夢」を見続けるのだ。脳髄は溶け、思考は停止し、ただ果てしない狂気だけが、私のすべてを満たしていく。
チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
狂気のお囃子だけが、いつまでも、いつまでも、私の耳の奥で鳴り響き続けていた。
GMからのプレイアドバイス・分岐解説
【アドバイス】 正木教授の言葉を鵜呑みにせず、常に裏をかく質問を投げかけましょう。自分の記憶を作り出すロールプレイも有効です。